左利きの天才が生んだ鏡文字の謎

レオナルド・ダ・ビンチが愛用した右から左へ書く鏡文字は、左利きの彼にとって実用的な文字術だった

レオナルド・ダ・ビンチの手稿を初めて目にした人は、まるで暗号のような文字に困惑することだろう。右から左へと流れるように書かれた文字は、鏡に映して初めて読むことができる。この「鏡文字（mirror writing）」は、ダ・ビンチが生涯を通じて愛用した独特の文字術であり、彼の膨大な手稿の大部分がこの方法で記されている。現存する彼のノート約7,000ページのうち、実に95%以上が鏡文字で書かれているのだ。

この特異な書字法は、ダ・ビンチが左利きであったことと密接な関係がある。通常の左から右への文字を左手で書く際、手首を不自然に曲げる必要があり、長時間の執筆には適さない。しかし、右から左へ書く鏡文字であれば、左手は自然な角度を保ちながらスムーズに動かすことができる。ダ・ビンチにとって、この文字術は単なる奇癖ではなく、効率的な記録手段だったのである。

興味深いことに、ダ・ビンチは必要に応じて通常の文字も書くことができた。公的な文書や他人に宛てた手紙では、読み手を考慮して左から右の通常の文字を使用している。つまり、彼は意識的に鏡文字を選択していたのであり、これは彼の実用主義的な性格を物語っている。左利きという身体的特徴を逆手に取り、自分にとって最も書きやすい方法を編み出したダ・ビンチの創意工夫は、天才の柔軟な思考の一端を示している。

手稿に残された鏡文字は秘密保持の意図もあったが、インクの汚れを避ける左利きならではの工夫でもあった

ダ・ビンチの鏡文字について語られる際、しばしば「秘密保持のため」という説明がなされる。確かに、一般的には読むことが困難な鏡文字は、アイデアや発明を他人の目から隠すのに効果的だった。特に軍事技術や解剖学的発見など、当時としては革新的すぎる内容を記録する際、鏡文字は一種の暗号としての役割を果たしていた可能性がある。宗教的権威が強かった15世紀のイタリアにおいて、人体解剖や異端的な思想を隠蔽する必要があったことも事実である。

しかし、秘密保持以上に実用的な理由があった。それは、インクの汚れを防ぐという左利きならではの工夫である。左手で左から右へ文字を書く場合、手のひらや小指の側面が書いたばかりのインクに触れ、文字が滲んだり手が汚れたりする問題が生じる。ダ・ビンチが使用していた羽ペンとインクの時代には、この問題は特に深刻だった。右から左へ書く鏡文字であれば、手は常に乾いた部分の上を移動するため、インクの汚れを完全に回避できる。

この実用性は、ダ・ビンチの膨大な手稿の美しさからも証明される。彼の鏡文字は非常に整然としており、インクの滲みや汚れがほとんど見られない。これは単なる偶然ではなく、長年にわたって磨かれた技術の賜物である。ダ・ビンチにとって鏡文字は、思考の流れを妨げることなく、美しく実用的に記録するための最適解だったのだ。現代の左利きの人々も、彼と同様の工夫を凝らしていることを考えると、この500年前の天才の発想がいかに合理的だったかがわかる。